1年前の2月11日、野村克也が世を去りました。彼の手で“再生”した野球人が生前のエピソードを振り返ります。
選手の隠れたポテンシャルを見極め、適材適所に配置し、その力を最大限に引き出す手腕が注目された野村再生工場。頭脳派なだけではない、人間くさい心理掌握の妙を、3人が語った。
初出:Sports Graphic Number 999号『再生工場の秘密を解く 江本孟紀/小早川毅彦/遠山昭治』(2020年3月12日発売/肩書などすべて当時)
1972年。東映フライヤーズから南海へトレードとなった江本孟紀は、そこで選手兼任監督であり球界を代表する大捕手だった野村克也と遭遇した。まだ未勝利だった右腕はその年いきなり16勝をあげた。
「捕手の力だけで16勝できるなんてありえない。ちょっとみんな偶像化しすぎなんです。ただね、不思議なのは、僕は4年間、毎年200イニングほど投げましたけど一度も野村のサインに首を振ったことがなかったんです」
跳ねっ返りで、他人の思うようになるのが大嫌いな江本がなぜ首を振らなかったのか。それは野村が一球にかけている膨大な時間を知っていたからかもしれない。
「ヤクルト時代のような野村ノートはまだなかったけど、大学ノートを積んでいて、それが辞書みたいに分厚くて……。僕らはそれを見るだけでゾッとした。それでゲーム前日は3時間くらい投手ミーティングするんですよ……」
江本から見た野村は心を読む達人
そしてそれだけの根拠を集めながらゲームになるとそれをポイッと捨ててしまうようなところがあった。試合の半ば、江本の注意力が散漫になりコントロールが乱れてきたとき、必ず出すサインがあった。
「真ん中真っすぐです。たぶん俺だけにつくっている特別なサインで、ピッチャーとしては屈辱的ですよ。これをゲームの中で調子の波が落ちてきたときに出す。早くミナミ行きてえなとか余計なこと考えはじめて集中力が切れるところがわかる。そこであのサインが出る。そうすると力のある球が外角低めに決まったりするんですよ。そうやって何球か投げているうちに修正できている。僕の完投数が多かったのはそれが一つの原因かもしれません」
江本から見れば、野村は勤勉な学者や研究者タイプではなく、むしろ人の心を読み、操ってしまう感性の達人でもあった。
ある意味で江本の不幸はプロに入ってすぐ野村に遭遇したことだという。'75年オフに阪神へ移籍すると、その6年目、当時の監督・中西太との確執から8月26日のヤクルト戦で何の手も打たなかったベンチに「ベンチがアホやから野球がでけへん!」と発言し、それにより引退することになった。
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