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亀山氏 盟友の日本ハム・新庄監督にエール「プロ野球の監督像が彼を分岐点に変わるかも」 - スポニチアネックス Sponichi Annex

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亀新フィーバーを巻き起こした阪神・新庄剛志(左)と亀山努
Photo By スポニチ

 現役時代に新庄監督と阪神で一緒に外野を守り、ヤクルト、巨人と優勝争いを演じた92年には「亀新フィーバー」を巻き起こして大ブレークをしたのが亀山つとむ氏(52=スポニチ本紙評論家)だ。8日、監督としての第一歩を踏み出した元相棒に、ビッグな期待を込めてエールを送った。

 キャンプ視察初日、自分でグラウンドにトンボをかけて、島野育夫さんがやっていたことだと思い出話をしたと聞いた。島野さんはあの92年の外野守備走塁コーチ。当時の中村勝広監督の名前も監督就任会見で出していたし、一緒にプレーした時代のことを大事にしているのはうれしい。

 新庄は2つ年下で89年ドラフトで入団してきた。最初の印象は九州なまりの強い、それで肩はめっぽう強いにいちゃん。僕と立場が近かった。実績なしから、92年にすい星のように飛び出した。島野さんから「新庄は人気があるしモテる。他の先輩は誰も相手にせんから相手してやれ」と頼まれて面倒を見た。

 あのシーズン、阪神は新庄を大型内野手として2軍で鍛えるつもりだったはず。それがオマリーのケガで三塁でチャンスをつかみ、オマリーが復帰すると中堅へ。僕と右中間コンビを組んだ。最初の頃は肩で魅せようと守備位置はひたすら後ろ。打球に飛びついて捕った時「今のファインプレーだと思うか?違うよな」と諭した。ポジショニングが良ければ飛びつかなくても捕れる。そこに興味を持ち、島野さんの指示に反対意見を出したりし始めた。島野さんの言う通り守ったら、新庄の言う方に打球が飛んだことがあり、次から「お前に任す」と言われていたよ。

 メジャーで中堅以外も経験し、日本に復帰した日本ハムで左翼、右翼も統率する外野3人の完成形を見せた。初日から早速肩の強さを見ていたというし、監督としても外野守備にはこだわるだろう。それに、口数は少ないけど、自分たちのコンディションを知ろうと、毎日声を掛けてくれた島野さんのように会話を大事にすると思う。特に下の立場の子ほど声を掛けそうだね。

 新庄に「なんで自分に指導者のオファーが来ないのか?」と聞かれたことがある。「組織の中でお前は管理できないからや」と答えた。常識外れのことをやりたがるから扱いにくいが、日本ハムは扱う覚悟を決めた。プロ野球の監督像が彼を分岐点に変わったんだ、という人になるかもしれない。期待している。(本紙評論家)

 ▽92年「亀新フィーバー」 85年日本一以降は低迷していた阪神を優勝争い(最終順位は2位)に加わらせた若手2人の頭文字をとった社会現象。鹿屋中央(鹿児島)から入団5年目の亀山は開幕直後から右翼に定着。西日本短大付(福岡)から入団3年目の新庄は、1軍昇格即スタメンの5月26日大洋戦で第1打席初球本塁打を放って勢いづいた。背番号00をつけた亀山のヘッドスライディング、強肩で勝負強い新庄の華のあるプレーがファンを引きつけた。名外野手に育った新庄に対し、亀山はその後は故障に苦しみ、97年限りで現役引退した。

 《整備は僕たちがやればいい》新庄監督は内野ノックを受ける選手のため、コーチらとグラウンドを何度も整備。「守備を終わって次(の練習メニュー)までに休憩させたい。コーチには選手にはグラウンド整備をさせないでくれと言った。僕たちがやればいい」と説明した。過去の経験を問われ「阪神の島野育夫コーチは選手にグラウンド整備をさせなかった。甘やかされていた僕を怒ってくれて、柏原さん(阪神2軍時代の打撃コーチ)、島野さんは好きだった」と述懐した。

 ◇島野 育夫(しまの・いくお)1944年(昭19)3月30日生まれ、栃木県出身。作新学院から明電舎を経て63年に中日に入団。南海、阪神を経て80年に現役引退。通算成績は1466試合で打率・242、24本塁打、211打点。引退翌年の81年から阪神、中日でヘッドコーチ、2軍監督などを務め、星野仙一監督の参謀として知られた。07年12月15日没。享年63。

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